自分記録帖

自分に戻る、自分を生きると決めた私の記録帖です。

列車に乗って、病院さん向け新入社員研修へ!

毎年2回〜3回 伺う病院

診療…ではなく

新入社員研修や、接遇研修、医療倫理研修の講師として

この数年とてもお世話になっています

 

毎回笑顔で迎えてくれる事務局のスタッフ皆様

特にTさんの笑顔は格別にホッとします

(帰りにおやつをもたせて下さいました!嬉しい〜)

講義前後にお付き合いくださる事務長とのお喋りも楽しみ♪

 

この日に備えて美容院に行っておいたのですが

前髪を切りすぎてしまったのですが・・

『次回は前髪が伸びたころですね』と次回のご依頼をいただだきましたよー

事務長 ナイス!

 

さて、帰りましょうと外に出ると

ちょうど、研修を全て終えた新人さんたちがぞろぞろ

手を振って見送ってくれましたー

嬉しいなー

 

接遇研修って、目新しいことはなかなかなくて

挨拶しましょう

返事をしましょう

笑顔でいましょう

そんな「あたりまえ」をいかに「あたりまえに実行するか」なんですよね。

 

私は、接遇はスキルだと考えています

習慣にする仕組みづくりを提案しています

 

いつもいつも心を込めて感じよく!なんて…疲れちゃうでしょ?

なーんて黒いこともペロッて言っちゃう。

 

できる人はしたらいい

でも、できないのに無理してもストレスが伝わるだけじゃないかな?

いいよ。無理に笑わなくて。

 

でもね、感じ悪いのはマナー違反よ?

八つ当たりとか感情だだ漏れは大人のすることじゃない。

 

感じ悪くしないのも仕事のうち。

感じ悪くしないと仕事が廻る

感じよくなると一層ラクになる不思議

体感してもらえたらいいな。

 

例えば、相手が怒り出したり感じ悪かったりも病院あるあるだけど

私のマナーどうだったかな?

相手を思いやった行動を取れていたかな?

振り返って非がないのであれば

堂々としていればよろし。

そう思いますよ。

 

あ、開き直るのとは違います!

 

そんな応対に興味があるスタッフさん、事務長さん、院長先生

ぜひお気軽にお問い合わせくださいませ。

 

 

 

自分で自分を守るということ。

夢のお話

 

1週間ほど見続けた

「入り込まれ」を拒み、怒る夢

 

隙はないかとまとわりつくイヤなものに

絶対イヤだ!と抗い続けました。

 

「境界線侵害を拒む」とは

自分の陣地を守ること。

自分の舵に触らせないこと。

これは「私の」だと主張すること。

 

絶対に「いいよ」と言ってはいけません。

優しさが、仇となることがあるのです。

甘くあってはいけません。

舐められたら怒っていい。

 

この「私の」が曖昧だと守れないのだ。

 

これまで私が私を守れなかったのは

もうひとりの「私」が閉め出されていたせい。

私は2人存在していた

内と外 どっちにもいるせいで

門を閉めることができない。

 

 

昨夜は

里に降りてくる凶暴な熊に襲われないよう

家中厳重に鍵をかける夢をみました。

 

庭の木も花も薙ぎ倒す真っ黒な熊

めっちゃ凶暴…。

 

外に逃げた方がいい⁈

でも時間が読めない。

逃げるのに十分な時間はない。

危険はおかせない。

外に出ないことを選ぶ。

 

玄関も窓にも鍵をかける。
心許ないので雨戸も閉める。

 

「ひとり」の存在になった私

私は「此処にいる」と解れば

安心して門を閉じ扉を閉め鍵をかけられる。

 

私は私を守れるようになりました。

 

まず、閉じる。

開くのは、時に応じて慎重に。

ここは私の居場所じゃない 境界性人格障害からの回復」

借りっぱなし置きっ放しの本
手にとって(細かな描写は吹っ飛ばし)数時間で読了。

 

恐らく、数日前に読んでも全然解らなかったと思うから

このタイミングでこの本が家にある

(自分で借りていたにもかかわらず)

タイミングの妙を思います。

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 統合失調やら境界性人格障害やら憑依やら

あれやこれやあるだろうけど

コレ!といったステレオタイプのものがあるわけではないのだな

 

程度も症例も多岐にわたり

人によって現れ方は様々なことが 今はよーく解る

コレに当てはまるから、当てはまらないからという判断や病名をつけることには意味がないことです。私には。(意味がある人もいます)

 


本来で在ることが、難しい。

どうやら本来でいないことは分かる。
という漠然とした 私じゃない感でい続けることは 苦しいこと。

 

誰からも本来でいさせてもらえない苦しみ、理解されない悲しみ、表現できない苛立ちが

怒りとして表に出る。

時に攻撃的に(他者に向くとは限らない)

 

 

その状態が「通常」である者に

体感したことがない「本来の状態」を説明することは困難

自覚させることも困難

苦しいことが通常だから苦しいことになかなか気がつけないのよ。

自覚出来ても判っても、「解る」は、より困難。

 

なのに やっぱり どうしても

本来になる、戻るには「自分」を体感すること以外にないというのは…。苦しいよね。

 

いちいち育てて行くしかない感覚は、この渦中にいる者に絶望を感じさせるくらい困難。かも。

 

 

この困難を越えられた私は本当に恵まれている。

この本の主人公も。

 

良い医者

良いカウンセラーの出逢いは

至宝の機会。

 

「自分」で在れることが

どれほど伸びやかでいられることか。

 

世の誰もが「自分」で在れるなら

世界は平和になるだろうな。

 

「サバイバー」と呼ばれることがあるけれど

的を射ている表現だと思う

何処から?誰から?誰それ何処に要因はあるしフォーカスしてしまいがちだけど

問題はそこじゃない。

 

感受性を守る環境が整わない中で生き抜いた=サバイバー

かなーって考えます。

 

環境がなかったのは残念なこと。

でも周囲が悪とは限らない。

わかりやすい悪がないことで苦しい人も大勢いるからね。

ameblo.jp

 

ここは私の居場所じゃない―境界性人格障害からの回復

ここは私の居場所じゃない―境界性人格障害からの回復

 

 

 

母 ≠ 私 母=母 私=私

母から救援物資が届きました

 

大抵、エスパーかと思うタイミングで届く

そして、思いがけないものが入っていたりするから

箱をあけながら笑ってしまう。

 

箱いっぱいに隙間なく詰められた野菜、ティッシュ、洗剤 ひとつづつ出していたら

泣けました。

号泣〜

思っていたより、どうやら参っていたらしい私。

やっぱり母はエスパーかも。

 

そして、これまで取り組んできた課題

「母の愛」を受け取った瞬間でもあったように思います。やっと!

 

 

ゲーリー・チャップマンというアメリカの結婚カウンセラーの研究(?)による

愛を伝える(受け取る)タイプ分類というのがあります

愛情を愛情と認識して受け取るには、それぞれのタイプで示されることが重要。

そんな内容

愛を伝える5つの方法

愛を伝える5つの方法

 

・(肯定的な)言葉
 相手が嬉しくなるようなポジティブな言葉をかけられることで愛情を感じる
 愛を表現する感謝や励まし、褒めるなどの肯定的な言葉で愛情を表現する

・一緒に過ごす上質な時間
 一緒に上質な時間を過ごすこと。相手に注意を注ぎ、同じ時間を共有することで愛情を感じる
 一緒にいるからといって、携帯やTVなどに注意がいっている状態はクオリティ・タイムとはいえない

・贈り物
 プレゼントをする、されることで、愛を感じる
 高価なものである必要はなく、ちょっとしたお土産や手紙や花なども喜ぶ

・サービス
 相手を喜ばせたいと願い、相手のために何かをしてあげる行為そのものが愛情表現
 このタイプの人は口下手な人が多く、言葉で伝えるのが苦手な人が多いよう

・ふれあい
 身体的なタッチで、愛を表現
 相手の体に触れることは、相手の存在を肯定する意味を持つ
 友達でも家族でもボディタッチが多い人は「ぬくもり」で愛を伝え、感じる

 

素直に愛情表現「できる」かどうかが問題の一つかとは思うんだけどね。

蓋をされたり我慢したりで抑圧されてたらできるものもできなくなっているはずだし

何をしてもらっても受け取れないこともあるから。

 

周りの人に色々訊いてみても、サクッと答えられる人は今の所一人もいない

  「全て満たされていると仮定して、さらに嬉しいのは?

     そう条件づけると、これと…これかなぁとやっと出てくる

 

私も母も、かなり不器用

すぐにパッとは浮かばなかった5つのタイプですが

今回、救援物資を見ながら

 

母は「やってあげる」ことが好きだよねーと改めて思うのです。

(近すぎてわかりにくかったけど)

救援物資は、一見「贈り物」のようだけど

私のためにしてあげられることを、(今回は)モノを使って表現した。ということだと思うから。

 

そういえば、以前甥っ子の野球関係のお母さん方が母の繕い物を褒めているのを目にした時、喜ばれている母がとても嬉しそうで大層驚いた。

どういうことかと訊いてみると

野球少年たちの母たちの悩みというのは、色々共有されているらしく

繕い物に関しては私の母が一役買っているらしい

穴の空いた靴に当て布をして繕うにも、新しく硬い布では足が痛くなったり動かしづらかったりするので、ジーンズなどの丈夫な古着を当てるのだそうだ。これが良い塩梅らしく、子供達も嫌がったりせず、甥っ子も穴の空いた靴を持って『ばぁちゃんお願いー』ってくるらしい。使う子の気持ちになって自分なりに工夫しているところが母らしい。お母さん すごーい!

 

私、繕い物はありがたーくお願いしておりますが

母の過剰な世話は煙たがります…

私、一緒に過ごす時間を充実させたくて色々やりますが

母にスルーされます

 

母は、サービス(奉仕)で愛情を示し(多分)言葉で受け取りたい。

私は、一緒にいる時間や触れて愛情を得ようとする、感情認識と言語化は苦手。

 

お互いにタイプが違うために、すれ違う愛情。

愛されてない前提で接するので、嫌なトコロばかりが目につく悪循環。

境界線の侵害による悪化。

 

私の心に思い描く母はいつも心配そう。

そして心配故に、怒っている。

心配しすぎ故に、直視できずスルーする。

 

「愛されてない」色のついた眼鏡を外せば

元来の、無邪気で可愛らしい母がいるのです。

(家の中ではなかなか見られない。ざんねん)

 

すれ違って、余計なものがくっついて

更に色眼鏡越しにみていた母に対する

母(という存在) = 不幸 という思い込み
私が幸せを選ばないのはお母さんのせいだ!という潜在的な復讐心

 

私にも母にも駄目なところはある

お互いさまではあるけれど

 

問題もまたお互いのもの

入り込ませないし入り込まない

 

 

母 ≠ 私 母=母 私=私 

そこに幸せも不幸も関連しない

 

母幸せ = 娘幸せ がいい。

今、そこにとても近いところに来られている気がします。

 

心に浮かぶ母の待ち受けは

眉間にしわ寄せた心配そうな顔をやめ

無邪気に笑うカワイイ母に変更します

 

お母さん ずいぶんかかりましたが

やっと愛情受け取ったよ。

嫌だと言うところから

2017年の瀬に

我が身の結婚トラウマを解放してもらったら

 

「家族」に繋がっていたことに気づいた2018

 

私は家族に愛されていますけど

小さい頃は受け取れませんでした

 

食べたい形でもらえず

コレジャナイ!と訴えて

 

でも欲しいものを表現出来ず

ただ泣いたり拗ねたり強がったりするだけでした

 

孤独だったのは家族のせいではなく

私のせいでもなく

 

嗜好や思考の違いを認められない

拙さ幼さ故でした

 

心の構造を知るほど

自分と向き合うほど

仕組みがみえて心が解けて自由になります

 

怖いけど、怖くない!

 

 

動いていいのです

貰えるところに

与えられるところに

 

欲しいものを欲しがって

受取り幸せになることは

家族を裏切ることにはならないよ

 

 

 

幸せになるつもりでいるのに

幸せを選べない、選ばない

心の仕組みがみえてくる。

 

仕方なかったのだ これまでは。

 

 

さて

この先も 仕方ない。で、いいのかい?

 

私は やだな。

 

やだ。

そう決めたら

笑って生きる方法を考え始めた。

 

 

周りも笑っていられる方法を考える。

それは

周りが幸せそうだと幸せな自分のため

周りが辛そうだと辛くなる自分のため

 

世に女子の笑顔が溢れる世界になりますように

世の男子がカッコよくいられる世界になりますように

誰もが本来の輝く道を歩めますように

 

本来を生きるための力に、私はなりたい。

PRIERE